あれから6年 [暮らし]
東北の震災から6年が経った。
そして私の父が亡くなって同じく6年がたった。
私の父は白血病でなくなったのだけれど、なくなった日というのが3・11だった。
父は、自由奔放で、最後まで「勝手な人」という印象が残っている。
私が高校に上がったころから、家にはあまり帰っては来なかった。
母は「いつものこと」のような感じで、特にそういう父に問い詰めることもなかった。
父は建築の仕事をしていて、もともと出張の多い仕事というのもあったからなのかもしれない。
私は、父とほとんど会話をすることもなかったし、短気な性格の父は私にとっては怖い存在でもあったから、いないならいない方が気が楽でもあった。
けれどある晩、父あてに1本の電話があった。
「○○いるか?」
「いえ、今はいません。」
「いね~じゃね~よ!嘘言ってんだろ!どこにいんだよ!金返せ!今から行くからな!!!!」
という父の借金している相手からの脅しの電話だった。
私と弟、そして母と一緒に、近所に住む母の友人の家に逃げ込んだ記憶は今でも忘れられない。
その頃から、母の顔から笑顔がっ減った。
そして、そんな勝手な父に苦労させられている母親が気の毒で仕方なくて、私は母に
「私もアルバイトできる歳になったし、一度きりの人生を子供がいるからって我慢することないんじゃないの? 嫌ならわかれればいいじゃん。 母さんが幸せになれる人生を選びなよ。」
と母に伝えた。
それから間もなく両親は離婚。
父にはすでに愛人がいた。
最後まで父は離婚を拒否していたらしいが、しっかり第二の家があった。
だから住むところにも困ることもなく、そっちはそっちで幸せにやっていたらしい。
近くに住んでいたことも知っていたけど、会いたいなんて一度も思わなかった。
そんな父から、久しぶりに電話があった。
「元気にやってるか?」
「うん、元気だよ!」
「あのさぁ・・・悪いんだけど5千円ばかり貸してくんないかなぁ。」
プッチーん
その瞬間私の怒りはマックスに到達。
久しぶりの電話かと思えば、金を貸せと・・・。
しかも子供の私に。
なんて情けない父親なんだろう。
お金を持って自転車を走らせて、悔しくて悔しくて怒りがおさまらず、自転車をこぎながら父親に電話をかけた。
「今お金持って行ってるけどさ、もういい加減にしてよ!!!なんで離婚したのかわかってんの?そうやってお金にだらしないから、母さんが苦しんでたんだよ!もうこれ以上苦しめないでよ!こんな電話してこないでよ!情けないと思わないの!?」
「ごめん・・・本当にごめん・・・わかってる、わかってる。すぐに返すし、もうこういうことで電話しないから。本当にごめん」
私は当時17歳。
高校を中退して社会人になり、多少の稼ぎはあったけれど、まさかそんなことで父親に頼られるとは思ってもいなかった。
父は私にとって反面教師でもあり、お金にだらしないとあぁいう人間になる!
だから、絶対にお金のことで人に迷惑をかけないように貯金をしよう!と決めてコツコツとお金を貯めていた。
それに、まだ中学生の弟がいるので、少しでも母を楽させてあげたい
そんな気持ちで仕事をしていた。
でも、そんな勝手な父だけど、やっぱりたった一人の血のつながった父親。
私も弟も、顔や骨格は父親譲り。
父親に似た顔や体型にコンプレックスを感じたこともなく、むしろ感謝している。
ダメな父親だったけれど、今でも尊敬していることがある。
どんなに体がしんどい時でも、体調を崩して熱が出ていても、仕事を休むことはなかった。
仕事が本当に好きで、人に優しい人だった。
だから多くの借金は、父がつくったもの以外にも、「保証人」になっていたせいでもあった。
ずっと長いこと一緒に仕事していた人に保証人になって欲しいと頼まれて、優しい父は役に立ちたい、助けてやりたいと思いでなったんだろう。
けれどその友人はどこかへ消えてしまった。
最後には裏切られ、結局は父が痛い目に合ってしまった。
そういうのも、私が大人になってから知ったのだけれど。
父親を今でも尊敬している。
もちろん母親のことも。
二人のことは私は死ぬまで越えられないんだろうなとも思っている。
でもいいの。
越えられないぐらい尊敬できる親を持てたことは、私にとって幸せなことでもある。
多分・・・
きっと・・・
私は父親に守られてるんだろうなって、私の勝手な思い込みだけど、そんな気がする。
父親との思い出は、当時5歳の私を父が肩車して、たばこを買いに行ったこと。
なんだろ、沢山いろいろと思い出あるのに、それはいまだ脳裏に強く残っている。
父の最期は病院のベッドだった。
父は「無敵」で、病気にかかるなんてイメージなんてなくて。
でもやっぱり人間だし、もともと病院嫌いな父はの白血病が発覚したときはすでに手遅れの状態だった。
亡くなる前日に私が病院に訪れた時は、話すことももうできない状態で、ただゆっくりと呼吸しているだけの父だった。
そんな父に話しかけた。
返事なんてあるわけないけれど、ただ坦々と感謝の気持ちを伝えた。
震災当日の夕方に、叔父から電話が入った。
「父さん亡くなったから・・・なかなか電話がつながらなくて連絡が遅くなってしまったよ。」
と。
覚悟はしていたけれど、今日か・・・
なんて日に亡くなったんだろうか。
絶対に忘れられない日に亡くなったのね。
偶然にしても凄い人だ。
だから今日という日は、震災が起きた日でもあり、私の父が亡くなった日でもある。
強く生きていかなくては。
こうして生かされているのだから。
父親に似た強さも多少は受け継いでいるのだから、強く強く生きよう。
父さん、ありがとう。
そして私の父が亡くなって同じく6年がたった。
私の父は白血病でなくなったのだけれど、なくなった日というのが3・11だった。
父は、自由奔放で、最後まで「勝手な人」という印象が残っている。
私が高校に上がったころから、家にはあまり帰っては来なかった。
母は「いつものこと」のような感じで、特にそういう父に問い詰めることもなかった。
父は建築の仕事をしていて、もともと出張の多い仕事というのもあったからなのかもしれない。
私は、父とほとんど会話をすることもなかったし、短気な性格の父は私にとっては怖い存在でもあったから、いないならいない方が気が楽でもあった。
けれどある晩、父あてに1本の電話があった。
「○○いるか?」
「いえ、今はいません。」
「いね~じゃね~よ!嘘言ってんだろ!どこにいんだよ!金返せ!今から行くからな!!!!」
という父の借金している相手からの脅しの電話だった。
私と弟、そして母と一緒に、近所に住む母の友人の家に逃げ込んだ記憶は今でも忘れられない。
その頃から、母の顔から笑顔がっ減った。
そして、そんな勝手な父に苦労させられている母親が気の毒で仕方なくて、私は母に
「私もアルバイトできる歳になったし、一度きりの人生を子供がいるからって我慢することないんじゃないの? 嫌ならわかれればいいじゃん。 母さんが幸せになれる人生を選びなよ。」
と母に伝えた。
それから間もなく両親は離婚。
父にはすでに愛人がいた。
最後まで父は離婚を拒否していたらしいが、しっかり第二の家があった。
だから住むところにも困ることもなく、そっちはそっちで幸せにやっていたらしい。
近くに住んでいたことも知っていたけど、会いたいなんて一度も思わなかった。
そんな父から、久しぶりに電話があった。
「元気にやってるか?」
「うん、元気だよ!」
「あのさぁ・・・悪いんだけど5千円ばかり貸してくんないかなぁ。」
プッチーん
その瞬間私の怒りはマックスに到達。
久しぶりの電話かと思えば、金を貸せと・・・。
しかも子供の私に。
なんて情けない父親なんだろう。
お金を持って自転車を走らせて、悔しくて悔しくて怒りがおさまらず、自転車をこぎながら父親に電話をかけた。
「今お金持って行ってるけどさ、もういい加減にしてよ!!!なんで離婚したのかわかってんの?そうやってお金にだらしないから、母さんが苦しんでたんだよ!もうこれ以上苦しめないでよ!こんな電話してこないでよ!情けないと思わないの!?」
「ごめん・・・本当にごめん・・・わかってる、わかってる。すぐに返すし、もうこういうことで電話しないから。本当にごめん」
私は当時17歳。
高校を中退して社会人になり、多少の稼ぎはあったけれど、まさかそんなことで父親に頼られるとは思ってもいなかった。
父は私にとって反面教師でもあり、お金にだらしないとあぁいう人間になる!
だから、絶対にお金のことで人に迷惑をかけないように貯金をしよう!と決めてコツコツとお金を貯めていた。
それに、まだ中学生の弟がいるので、少しでも母を楽させてあげたい
そんな気持ちで仕事をしていた。
でも、そんな勝手な父だけど、やっぱりたった一人の血のつながった父親。
私も弟も、顔や骨格は父親譲り。
父親に似た顔や体型にコンプレックスを感じたこともなく、むしろ感謝している。
ダメな父親だったけれど、今でも尊敬していることがある。
どんなに体がしんどい時でも、体調を崩して熱が出ていても、仕事を休むことはなかった。
仕事が本当に好きで、人に優しい人だった。
だから多くの借金は、父がつくったもの以外にも、「保証人」になっていたせいでもあった。
ずっと長いこと一緒に仕事していた人に保証人になって欲しいと頼まれて、優しい父は役に立ちたい、助けてやりたいと思いでなったんだろう。
けれどその友人はどこかへ消えてしまった。
最後には裏切られ、結局は父が痛い目に合ってしまった。
そういうのも、私が大人になってから知ったのだけれど。
父親を今でも尊敬している。
もちろん母親のことも。
二人のことは私は死ぬまで越えられないんだろうなとも思っている。
でもいいの。
越えられないぐらい尊敬できる親を持てたことは、私にとって幸せなことでもある。
多分・・・
きっと・・・
私は父親に守られてるんだろうなって、私の勝手な思い込みだけど、そんな気がする。
父親との思い出は、当時5歳の私を父が肩車して、たばこを買いに行ったこと。
なんだろ、沢山いろいろと思い出あるのに、それはいまだ脳裏に強く残っている。
父の最期は病院のベッドだった。
父は「無敵」で、病気にかかるなんてイメージなんてなくて。
でもやっぱり人間だし、もともと病院嫌いな父はの白血病が発覚したときはすでに手遅れの状態だった。
亡くなる前日に私が病院に訪れた時は、話すことももうできない状態で、ただゆっくりと呼吸しているだけの父だった。
そんな父に話しかけた。
返事なんてあるわけないけれど、ただ坦々と感謝の気持ちを伝えた。
震災当日の夕方に、叔父から電話が入った。
「父さん亡くなったから・・・なかなか電話がつながらなくて連絡が遅くなってしまったよ。」
と。
覚悟はしていたけれど、今日か・・・
なんて日に亡くなったんだろうか。
絶対に忘れられない日に亡くなったのね。
偶然にしても凄い人だ。
だから今日という日は、震災が起きた日でもあり、私の父が亡くなった日でもある。
強く生きていかなくては。
こうして生かされているのだから。
父親に似た強さも多少は受け継いでいるのだから、強く強く生きよう。
父さん、ありがとう。
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